- 2012年2月22日
ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。
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万想連鎖21 絵の中の鏡 那和慎二(福岡通信員)
萌 -2000-
絵を見ているようで、絵に映る自分を見ているのかもしれない。なぜボクネンの絵に惹かれるのか。それは、そこに今まで知らなかった自分が映っているからなのかもしれない。ボクネンと言わず、絵とはそういうものなのだろうか。絵と言わず、彫刻であれ、音楽であれ、自然であれ、その対象を見つめることを通して、自分自身を見つめているのだろう。巧く言葉にはできなくても、何か感じるものがある。対象によって自分の中から引き出される感情があり、その感情を通して自分自身を見つめ直したり、新しい自分を再発見する。
まだ、見ていない数千枚のボクネンの絵の中にある鏡を通して、どんな自分が見えてくるのだろうか。いつ、どこで、どんな状況のもとで絵と出会うかによって、また映り方も違ってくるのだろう。興味は尽きない。
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- 2012年2月 4日
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- 2012年2月 1日
万想連鎖20 緑門に誘われて 那和慎二(福岡通信員)
この夏、実際にボクネンに会えるかはともかく、追っかけを自任するからには、ボクネン展vol.3『ここまでおいで』~「緑門」が誘う世界~を見ておきたかった。今、自分が20年以上ボクネンファンであり続けるのも、あのとき、あの「緑門」をくぐったからだという思いがある。
自分が持っている「緑門」とは別のナンバーの「緑門」には、どんな着色がされているのか。「南の緑門」や「緑の口」、「この場所」、「島が見える緑門」、「未来からの風」、「海のふたがあいたまま」等を並べたら、どのように見えるのか。大作「節気慈風」とは4回目のご対面となるが、新たに何がみえるのか。勝手な期待も膨らませながら、くぐった2階の美術館のドアの向こう側には、意外な世界が待ち受けていた。美術館内部は、屋上に上がる螺旋階段口の先に壁とくぐり戸が設えてあり、その先に広がる世界にさらなる期待を高めることを意図しているように思われた。確かに、「節気慈風」の前に置かれたベンチにもたれて、視界いっぱいに広がる光景を独占して堪能したとき、ボクネンの眼に映った世界に自分を同化させるには、壁に隔てられた世界にくぐり戸を抜けることが大切な要素であったと思う。
しかし、今回、もっとも印象に残る1枚は、そこにはなく、くぐり戸の外、作られた壁の隅に、ひっそりと、見られることを避けているかのように掛けられた1枚、「洞窟(ガマ)から」であった。この作品は、どこかで見たような気もするが、多分、現物にお目にかかるのは初めてである。帰ってから画集をひっくり返して見たら、2000年に出版された「新撰名嘉睦稔木版画集」の中に見つけることができた。空の色もなく、モノクロ作品以上に色や明るさを感じないこの作品が選ばれて画集に載る不思議さを思っただけで、素通りしていた作品である。そもそもが暗い世界であるガマ、そこに暗い歴史をも塗り込めた沖縄のガマから見える決して明るくない外界。それは、他の緑門作品群以上に、明と暗、陰と陽、正と負を隔てる境界線を意識させるとともに、まったく逆のようでありながら、すぐそこに隣り合うそれぞれの世界の存在を意識させた。見たいも見たくないもなく、見えないものを切り取って見せるボクネンの意図しない意図が、そこにあるように感じられもする。
いつも持ち歩いているミニアルバムをボクネンに披露した。私の大切なボクネン営業ツールであるが、ボクネンに見せたかったのは、最後に差し込んだ1枚の写真、題して「私の緑門」である。熊本市内で地下水が湧き出す江津湖。その美しい水辺に芭蕉の群落がある。若夏のあふれる光を浴びてあたり一面が緑色に染まった小道。自慢の1枚ではある。しかし、機会があれば、もう1枚。鉛色の空の下で冬の寒さに枯れる芭蕉群を写してみようと思う。
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- 2012年1月20日
過去、現在、もしくは育まれて行く未来の沖縄を感じる事ができました。
黒の墨に色をつけるのは難しいだろうなぁ・・と
今日は来て良かったです。画面からほとばしり出る生命力に、見ている私までがエネルギーをもらう様な・・。
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- 2012年1月18日
ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。
万想連鎖19 オオコウモリが飛ぶ 那和慎二(福岡通信員)
伊是名・伊平屋では、原付を借りて合計200キロを走ったので、すっかり日焼けしてしまったが、日差しの強烈さの割には気温も九州より低く、何より風が心地よくて過ごしやすかった。それでも、暑いことは暑い。沖縄に来るたびに思うことは、交通渋滞が激しくなっているのでないかという心配だ。車の増加も道路整備も、人間という自然の生き物の営みに違いないが、なぜそこに不自然な違和感を持つのだろう。静かな島でガソリンを燃やし、騒音をまき散らして鳥や虫を不用意に驚かせておきながら、勝手な言い分とは心得ている。舗装道路の上と自然の土の上では、明らかに温度が違う。日中のアスファルト上では、人間は生きてはいけないのだ。だから、建物の中に閉じこもり、エアコンを回して外気をさらに熱くしている。若干の経験も含めて、知識としてそう理解している。
ボクネンとの対話は、余計に緊張することもなく、當山館長が席を外した後も、リラックスして続けることができた。ボクネンは言う。吹いて来る風の向こうに何本の舗装道路があるのか、風の温度差から感じることができるのだと。確かに、風はいつも同じ温度ではない、温かい風の中にふと冷たさを感じたり、風の冷たさがふと緩んだりする瞬間は、思い返せばあったような気がする。しかし、そのとき、そのわけを考えたことはない。無色透明な風の中にある無色透明の縞模様を、その微妙な温度差から感じ取り、その温度差の源まで想いを巡らせるボクネンのような感性を、他の人の口から聞き出したことはない。すべては己の感性によってとらえた事象が先にあり、知識は後付けである。物事の見方、感じ方がまるで逆なのだと思った。
北谷美浜地区が、元々どのような自然環境であったのか知らない。海を埋め立てたことは想像できるが、今は、道路と商業施設、ホテル等に埋め尽くされていて元の自然の面影は見当たらない。それらの建物が、やさしいオレンジ色の光に包まれる頃、アカラ3階のJANOSZのテラスから見下ろすビーチの小さな茂みから鳥が飛び立った。鳥。なんの鳥かと聞かれればカラスと答えたと思う。カラスとも認識せず、鳥と思ったその正体は鳥ではなく、ボクネンからオオコウモリだと明かされた。人間が街の美観を意図して植えた街路樹の実を、どこからか来て住み着いたオオコウモリが、ギャアギャア鳴きながら食べるのだと言う。同じ世界に住みながら、見えているものがまるで違う。感じているものがまるで違う。さっき一緒に食べた沖縄そばも、同じものを食べながら、まったく違う味わい方をしているのではないかと思った。大海原を群れて泳ぐ鰹や、家畜として営々と飼われてきた豚のそれ以前の姿にも思いを馳せて、沖縄そばを食べることから練習してみよう。
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- 2012年1月 1日
ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。
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万想連鎖18 見透かされる 那和慎二(福岡通信員)
万象連鎖211 『繁芽』 2010
時間になっても現れないボクネンに、実はほっとしていた。あの眼で睨まれてしまったら、その瞬間、思考停止に陥り、楽しいランチなどというものはあり得ない。緊張した時間が早く終わらないかと願うばかりになってしまうのではないかと、内心恐れていたのである。昨年のボクネン美術館開館日に、偶然ボクネンと会い、お茶をご馳走になった時間もそうであった。感想を求められても頭の中は白くなるばかりで、夢のような時間も、半分は早く醒めることを願っていた。
ボクネンが来ないから、當山館長とおしゃべりしているうちに、1時間以上が経過していた。當山館長の眼光もなかなか鋭く、恐れを抱かないでもなかったが、それ以上の親しみやすさを全身に纏っていて、また、ボクネンという共通項を軸に、お互いに遠慮なしの饒舌の応酬となった。ボクネンとの付き合いが長い館長は、ほとんど初対面に近い私にとって、ボクネンにまつわる長年の恩師になったのである。近いか遠いかの差はあるが、それぞれの立ち位置から築いてきたボクネン観をぶつけあったことは、その日までにお互いが知らなかったという壁を取り払った。おしゃべりのテーマは、なぜボクネン作品に惹かれるのか、ということに尽きる。そこで出てきたキーワードに一つが、「見透かされる」というものだ。ボクネンが画に切り取る森羅万象は、誰もが見ていながら、見えなかったものを映している。それが何かと端的に言葉にできれば苦労はないが、世界を見るとき、その表面の裏側にあるもの、そのまた奥にあるもの、その場面に至る時間的な背景までを感じて、見えているのではないか。画にはそれが表現されているのだと思う。いささか大袈裟かもしれないが、ボクネンと対峙したとき、その眼によって、自分という人間が瞬く間に解像されて、裏も表も過去も未来も映した今の自分を見られている。そのような恐れから「見透かされる」という言葉が出てきた。當山氏の語感とは一致していないかもしれないが。ボクネンがいないことをいいことに、ボクネンがいたらこんな話はできないと言いながら、楽しいおしゃべりは3時間にも及んだ。もうボクネンが現れなくても、満腹であった。
満たされた気持ちのまま、1Fのショップでボクネングッズを物色していると、携帯電話がブルった。今さっき別れたばかりに當山館長からの電話で、ボクネンが間もなく現れるという。満腹であったはずなのに、急に空腹感を覚えたような気がした「見透かされる」覚悟ができていたので、ボクネンの眼を恐れる必要がなくなっていたのだ。當山館長との語らいが、ボクネンに会うための大切な予習の時間になった。ボクネンの懐に抱かれるような授業時間が始まった。
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- 2011年11月20日
沖縄には、タウチーオーラセー(闘鶏)と言って、2羽のオスのニワトリを戦わせる娯楽があります。最近は減ってきましたが。この闘鶏は東南アジアでは古くから行われていました。
眼がえぐれようと、脳みそが見えようが戦う事をやめない闘鶏もいるといいます。そこには戦う神が宿っているとボクネンは言います。ボクネンがその闘神を描いた作品が1998年制作の『焔(ほむら)』です。
焔とは炎という意味があり、私自身、ボクネンの作品の中で一番といってもいいくらい、この作品に心を動かされます。
一言で言うと本能に突き刺さる絵という感じでしょうか。男なら誰しも強いものに憧れると思いますが、その本能に刺さるのです。、血まみれになりながら、眼をえぐられながらも、ただひたすら燃え尽きるまで戦い抜く。その強さが伝わってきたとき身体が震えるのです。
ボクネンと闘鶏は奇妙な縁があります。浦島太郎ではありませんが、ボクネンのアトリエの近くにある浜で、ある日、戦いで傷ついた闘鶏が捨てられていました。ボクネンはそんな動物を放ってはいられません。
余談ですが、つい先日もボクネンが怪しげなカゴを持って現れました。中を見てみるとメジロの赤ちゃん。「台風で巣から落ちたメジロの赤ちゃんを拾って巣立たせる。」ボクネンはそう言っていました。
ボクネンは闘鶏を連れて帰り、飼いだします。するとある日また、浜で別の闘鶏が捨てられていました。ボクネンはまたその闘鶏も飼いだします。二度も傷ついた闘鶏を拾うなんてことはなかなか無いと思いますが。不思議とボクネンの周りには動物達が集まってくるようです。
戦いに傷つき使い物にならなくなった軍鶏は捨てられる。ボクネンがどういう思いでこの作品を彫り上げたのか分かりませんが、そんな現実を知り、この『焔』を見ていると闘鶏たちの怨念すら感じてしまいます。
「喰ったという意識があるなら喰われるということも共有していかなければならない」美術館の壁に貼られたボクネンの言葉が胸に響きます。
実は、この『焔』には闘鶏の魂と言いますか、霊魂と言いますか、ボクネン曰く一羽だけ幻想の闘鶏が描かれています。皆さんの分かりますか?
展示期間 2012年3月11日(日)まで
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- 2011年11月12日
11月11日より、ボクネン美術館での新たな企画展、『鼓動』がスタートしました。躍動感溢れ、戦う神の化身とさえ思えるような軍鶏を描いた、沖縄では初公開の作品、「焔(ほむら)」をはじめ、見る者に畏怖の念さえ抱かせる作品たちが皆様をお待ち致しております。また、開催にあたり当美術館学芸員の當山 睦子の挨拶文を紹介したいと思います。
『鼓動』とは、"震え動く"や"振るわし動くこと"、"心臓の動き"または"胸に伝わる響き"などを意味します。ボクネンの版画作品には、まさにその言葉に感じるイメージが存在しているような気がしてなりません。
燃え上がる様な威圧感で今にも飛びかかってきそうな闘鶏(軍鶏)(「焰」1987年)の勇ましさの中にある、どこか冷たく張り詰めた緊張感。針の様な視線の奥にある誰にも触れられない本能の強さには、身振いを感じさせられます。
また、龍のような様相でうねり動きながら成長する大木の姿(「巌臥蒼龍2008年)には、目に見えない時の流れを静かに突きつけられているようです。
そして人間の心の深層に潜む、自分でも知り得ない感情に戦くような様(「いたたまれない愛」1996年)は、脱力さえ憶えます。どれも極端な表現ではありますが、これらを眺めていると、作品の世界に引きずり込まれるような感覚になります。これこそがボクネン版画が持つ魅力の一つだと感じます。
今企画展では、『鼓動』をキーワードとして、「自然」「生物」「人の感情」を軸に、"斜めから見たボクネン"とでも表現出来るであろう作品の数々を展示しています。これらを通して、日々の移り変わりの中で当たり前で見過ごしがちな変化や、それぞれの大切な何かにふと気付くきっかけになればと思っています。
作品の奥の方にある「感情」「動き」「音」「匂い」に目を凝らし、ボクネン版画に込められた、静かな、或るいは強烈な『鼓動』を沢山の方に感じて頂ければと思います。
ボクネン美術館学芸員 當山 睦子
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- 2011年11月 1日
ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。 .........................................................................................................
万想連鎖17 夏休みの宿題 那和慎二(福岡通信員)
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- 2011年10月11日
ボクネン作品は「桜の花滝」「星の道」「大太陽」「湧卵」など35点を展示。奄美での展示は初めてということもあり、「ずっとボクネンさんの展示会を待っていました。とてもうれしい」(会社員女性30歳)。「陰と陽が田中一村と別の角度で描かれている。興味深いです」(NPOスタッフ40歳)などなど、奄美で開かれたこの企画にみなさん興味しんしん。
当日2時からは「ボクネンズ・アートトーク」もあり、150名余りの聴衆が聞き入った。
「奄美の植生は似ていると思っていたが、まったく同じ。とてもびっくりしつつ感動した」「人間も自然のなかで暮らすひとつの種のようなもの。いま私たちの営みが未来の子どもたちのために届くことを願う。私もそのことに参加していきたい」というボクネンの熱い言葉に会場の人たちがうなずいた。
同展示会は11月13日まで。入場無料。なお、「田中一村記念美術館」は奄美大島の奄美パーク内にある。
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